<子猫殺し>直木賞作家・坂東さんがエッセーで告白

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060824-00000019-mai-soci
今話題のネタ。これに批難の声が上がるのは当然のことではあるけど、ただこれを他の例で考えると、たとえば「子供が子猫を拾ってきたので、それを捨てろと命令して捨てさせた」と誰かが新聞やブログに書いたとしたら、やっぱり糾弾されるだろうか?飼ってる猫に関しては責任を持つのは当然としても、その猫の行動に関してどう振舞うか?と考えるとなかなか難しい。
上の子供の教育の例でいけば、 避妊すること = 子供に捨て猫を見ても無視しろと教育する となると、果たしてそこまで糾弾されることだろうか?親が子供の拾ってきた猫を勝手に捨ててくるとしたら?それを公表するとしたら?
そう考えると簡単に答が出る話じゃないし、結局「子猫を自らの手で殺す」という部分ばかりがセンセーショナルにクローズアップされている気がする。


避妊手術と子猫が生まれてから殺すってことと、どちらの罪が重いというのか。避妊手術が一般的になる以前は捨てるしかなかったし、それがそんなに問題になっていたのかどうか。近くに崖が存在するタヒチで日本人の常識を通していいのかどうか。
個人的にポイントだと思うのは子猫を始末するのに使っている「崖」の存在。困ったことがあればポイ出来るとこがあればそりゃあ使うわなあ。「自然に還す」っていう大義名分もあるし。子猫を始末する言ったとき、川に流すとか道端に捨てて他の人に拾われるのを期待するのも崖に落すのと同じことだと思う。「殺す」か「消す」か。


なので死んだ子猫に同情はするものの、板東氏を猫殺しとして特別に糾弾するべきか?というとそうでもないような気がする。猫好きが全ての猫を救えるわけじゃないし。新聞社に抗議するのも結局は「不快なものを読ませるな!」ってだけの話だと思う。
ただしその優しい気持ちだけは尊いものだし、大切にしないといけないと思う。まあそういう考え方・動物愛護なんてこと自体、人間の勝手なんだろうとも思うケド。


実際自分も猫と同居しているけど、猫に避妊手術を受けさせたときに、「未来を繋げることのできる一個の種」から、「個人の楽しみのためだけに生かされているペット」に勝手に堕としてしまってごめんなさい、と思ったし、結局避妊手術が偉いかといえば、板東氏の言うとおり子猫を始末するのに自分の手を汚すか否かの問題なのじゃないか?と思う。要するにどっちも生き物としての未来を人間の都合で奪っている、という点で変わりはないってこと。
猫だって子供を育てる環境が悪かったら自分で自分の子供を食い殺すこともあるし、そんなのはCREAの特集*1になんて載ってないだろうしなあ。そこで過剰に同情しても?と思うのは不謹慎なのかな。


以前コラムで読んだけど、作家の安部譲二氏が同じことを考えてて、「発情はOKだけど妊娠はしない手術」っていうのを獣医に頼んでやってもらったそうなので、これを板東氏にも教えてあげればいいと思った。これが一番の解決なんじゃね?



関連。
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060824#p9
今現在当のB氏のブログは消えちゃってるので見てない人にはさっぱりだけど、「どうして板東氏を糾弾する人はあんなに自分の正義を信じられるのか?そういう人の熱狂がナチを支持したのではないか?」という内容で、kagami氏は「人々の素朴な優しさをナチの狂気と同一視するのは許せない」、という立場。
B氏はちょっと先走ったな、という感じ。言いたいことはわからんでもないけど。「板東死ね!」みたいなレスの例をいくつも挙げてれば印象が違っていたかも?実際行動に移ってない以上説得力はないのだけど。だもんでそんな個人的な考えにそこまで怒らなくても、とも思うし、その反論に対してもそんなにナイーブにならなくても、とも思う。
たしかにB氏がメールで「攻撃に移ります」と言ったのはまずかったし、現在ブログは休止状態だけど、当の板東氏の代わりにB氏がとばっちりで傷ついてしまったようにも見えちゃうわな。
あとここ*2とか。そんなに謝ることもないよーな気が。
ブログとはいえネットで公開する以上人に意見を表明するってのはなかなか難しいやね。