映画の構造分析

映画の構造分析

映画の構造分析

筆者曰く「誰でも知っている映画を素材に使った、現代思想の入門書」ということで、映画におけるキャラクターやストーリー、カメラワークなどから「意味」を取り出し「解釈」する楽しみを教えてくれる一冊。


まず前提としてすべての「情報」は個人の中で「物語」として「解釈」される、ということを押さえる必要がある。

「意味のある」断片を組み合わせて、「意味の通る」文脈を作り上げるのではありません。逆です。文脈が決まらない限り、断片は「無意味」なままなのです。まず「物語」の大枠が決まって、その後に現実的細部は意味を帯びるようになるのです。「知る」ということは、それまで意味の分からなかった断片の「意味が分かる」ということです。そして「意味が分かる」ということは要するに「ある物語の文脈の中に収まった」ということです。
「知る」とは「物語る」ことです。物語抜きの知は存在しません。

というのはなるほどと思う。思考とはつまり物語なのだ。
「物語を排し、真実のみを語れ」なんてのは世の中の仕組みのわかってない人の寝言だそうです。

映画のなかの全てが、ただ一人の作者の完全なコントロールに従属しているのであれば、その「なんだか気になるディティール」の「意味」を探り当てることはそれほど難しいことではありません。
(略)
映画には、「何を意味するのかよく分からないもの」が必ず映りこんでいるということですし、むしろ「何を意味するのかよく分からないもの」が映りこんでいることこそが映画の本質的な魅惑を作り出しているということです。

のはなるほどと思う。これは別にミステリ要素というだけじゃなくて、キャラクターの性格や美術デザインなど全てに当てはまる。


ちなみに解釈する必要のない、作者が訴えたいことは、

「あっちから迎えに来る意味」は明晰にして判明です。しかし、それは抵抗なく受け入れられる代わりに、それ以外の解釈を許さない「閉じられた自明性」でもあります。観客は解釈する手間を省いてもらう代償に、誤解したり、曲解したり、深読みしたりする権利を放棄しなければなりません。

とのことで、たしかに「戦争はよくない」とかは単にテーマであって作品そのものの魅力たりえない。

 わたしたちがあるテクストを読んでいるときに、「意味のつながらないところ」「意味の亀裂」のようなものに遭遇することがあります。「意味の亀裂」を私たちはそのままにしておくことができません。私たちはそこに「橋」を架けます。「意味のつながらないところ」に「架け橋する」ことで、私たちは話の前後のつじつまを合わせようとします。
 この「意味の亀裂」こそ、実は私たちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う「物語発生装置」なのです。
 私たちが意味の亀裂を弥縫するためにその裂け目に架ける「橋」のことを、私たちは通常「解釈」と呼んでいます。

なんだそーで、
内田先生が実際の映画を観てその魅力をどう解釈するか?の実例はこの本にいろいろと書いてあるのだけど、これが実に面白い。映画好きなら読んで損はないし、現代思想をおいしくかじれるところがお得な感じ。


もちろん内田先生の映画の読み解きかたに納得いかない人もいるだろう*1けど、そう思った人はその人なりの「物語」があるということ。結局はその「物語」をいかに他人に対して説得力をもって面白く語れるか?っていうところが問題なんだと思う。


こうして書いていると自分の頭の中に「井上脚本」とか「響鬼騒動」とか「脳内保管」とかのワードがめぐっているのだけど書くと下品になりそうなのでとりあえずパス。

*1:製作者がそこまで考えて作品を作ったのか?ということも考えちゃうなあ