1週間後の秋葉原

駅の出口にはいきなりこういう立て看板が。

いつもと同じくビラ配りをしているメイドさんも健在だったけど、街頭のあちこちに警官が立ち、報道関係のでかいカメラとインタビューに使われるアームつきふわふわマイクを持った人もたくさんいた。


献花台の近くにはマスコミも含めて人だかりが。


こういう事件で週刊誌やテレビなんかのマスコミの、遺族の気持ちを考えない過剰報道がよく問題になるけど、それが視聴率・部数アップになるのは間違いないところだ。
でもなぜそうなのか。他人の不幸を好んで知ろうとするのはいったいどういう心の働きなのか。考えてみると自分でもよくわからない。
自分が事件に巻き込まれなかったという安心感・幸福感が得たいのか、それとも危険な情報を得て、自分に降りかかる危険を避けようとする本能的なものなのか。後者であるとすれば、その心性が動物に近いから、野次馬根性ははしたなく思われ軽蔑されるのか。
極端な話、遺族の気持ちを考えろというのなら、良きにしろ悪しきにしろ事件の報道もまったくするべきではないだろう。犯人がどういう経路でトラックを運転し被害者をはね、どうやって被害者を殺したのかなんて情報、普通に生きてていったいなんの役にたつ?加害者がどういう人生を歩んできてどういう理由で犯罪を犯したかを知って、もとから知らない他人にその情報を当てはめて警戒するなんてナンセンスだ。
そもそもニュースなんて、見なくても生きていくのにたいがい支障はないだろう?


事件発生時、被害者の姿や事件の現場を携帯カメラで撮る人々が叩かれていた。
それはたしかに良くないことだけど、なぜ良くないかと言われると理屈で返すのはなかなか難しいのではないか。事件に遭ったのは身内ではない。アキバに来ればみな友達なんてことはある訳ない。オタクイズデッドのオタク大陸崩壊とか共同意識の消失とかそういう話もカンケーなく、他人のことは死といえどやはり他人事だ。
自分が先週そこにいたとしたら、苦しんでいる人を撮らなかったとしても、交差点の風景を撮らなかったという自信はない。ブログのネタにしなかったという自信はない。
事件現場に居合わせたとして、友達に言うだけならセーフ?ブログに写真をあげたらアウト?犯人の様子を撮るのはセーフ?被害者の様子を撮るのはアウト?悪いのは俺なのかネットなのか?


携帯電話にカメラがついたことで、一般大衆も総マスコミ化している。マスコミに報道の自由があり、伝える義務があるというのなら、一般大衆も知る「楽しみ」があり、そして「伝える」楽しみがある。携帯は、ネットはそれを加速させる。たとえそれが、良い事でも悪い事でも。
自分がそれに巻き込まれなかった限り他人事だし、すべては情報に過ぎない。だからといって、なんでもやって良いわけではないくらいはわかる。わかるけど、それは理屈でわかってるふりをしてるだけかも。


ライターの葉山霄氏がこの事件に関しての一般大衆の行動を批判している。
http://otasyou.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_1919.html
正しい、正しいはずなのだけど、しかし実際のところ、報道で事件を知っただけの、身内が殺されたわけでもない、秋葉原にさほど思い入れもない、献花することを考えない人間にとってはやはり「情報」でしかない。
こうしてブログのネタにしてしまう以上、自分も十分に醜悪なのだろう。



駅前に戻ったら、AED設置ための募金をやってる団体が声を張り上げてたりして。でも女装する変態たちに募金を募られてもなあ。TPOは大事だよな。
あとラジオ会館に行ったらスーパーサイヤ人孫悟空のコスプレ(やたら良いガタイで頭は金髪ビキビキのカツラ着用)をした外人ファミリーと同じエレベーターに乗り合わせてしまい、笑いを堪えるのにひと苦労。ここにもなぜかカメラクルーがいたけど、こういう人は撮らないのね(事件とは無関係だからなのだろうが)。