平成ライダーの正義と悪

以前ちょこっと書いたけど、ヒーローは個と公の葛藤があったとき、公を取り、さらに個も取れる存在である、つーのが持論としてあって、今回のカブトはそれがちょうど現れてたてたエピソードだと思った。
個と公、どちらかを選ばざるを得ないのが普通の人間であり、それを描けばドラマ性は強くなるけどヒーローものとしての爽快感がなくなる。ヒーローもののシナリオはそのへんのさじ加減が面白さのミソだと思う。


どちらかというと白倉ライダーのキャラクターは個の問題にスポットを当てるのに対し、高寺ライダーは常に公を優先している。このへんが高寺ライダーが(昭和)ウルトラ的、父性的と言われる所以と考えるとわりとしっくりいくと思う。*1


以上ヒロイズムをパブリックとプライベートと言う視点で見てみる、という話。



正義を書いたから悪のほうも。


平成ライダーの正義は「人殺しを殺す正義」と以前書いたけど、平成ライダーシリーズは思想的な悪を描かないために、悪=人殺しになっている部分があって、そこに多少物足りなさを感じていたりする。
簡単に言えば昭和ライダーの悪は人殺しは手段・経過であって目的ではなかった。対して平成ライダーだと敵側の思想の描写ができない分を若者たちの青春群像劇を描くことでうまく補完し、新しい魅力を作っているのが特徴だと言える。
殺人は万人が認める絶対悪であるから、グロンギの悪は魅力になってたけど、魔化魍に魅力がなかったのはそのせいもあると思う。グロンギの思想は初手にして極まってたと言ってもいい。


要するに平成ライダーでは、絶対の悪としてヒーローが裁いていいのは殺人者だけ、ということになってしまっていて、そこがシナリオの枷になっているのではないか。
THE FIRSTのショッカーが世界制服を企む悪の秘密結社、というよりただの暗殺集団にしか見えないのは、結局思想が見えないせいなのだ。小説版だとそのへんは巧く描いてて魅力になってたのだけど。
テレビではなく映画においてさえも思想的な悪は書いてはいけないのか?という疑問がわいてしまう。そういうふうにしてしまったのは誰なんだろう?


てな感じで考えてると作り手側も大変だと思わざるを得ない。平成ライダーのリアルは時代劇程度のリアルすらも許されなくなっているんだから。

*1:敵側が絶対悪として描かれているせいもある