戦う君のことを 戦わない奴らが嗤うだろう

もちょい不幸論の感想の続きを書いてみる。
自分のこの不快感を分析していくと、本当に世界中の不幸を考えたらそれに押しつぶされてしまうし、死にも狂いもしない程度の不幸を思ってるだけなら、それはただの偽善で自己満足なんじゃないか?ということなのだ。
思考するにしても人間は他者がいなければ、思考のための肉体が存在できない(生活もできないし、そもそも生まれない!)のだから、自己だけで完結した思考に説得力はない。
そもそも思考する本人は絶対に他者にはなれないのだから、究極的には他人の幸福や不幸を語ることはできないのかもしれない。


ちなみに他人を不幸にしないと自分が幸福になれない、というのは小学生のときに悟りました。マジなのでしょうがない。
とっくにわかってることをネジまげられて他人に語られるのって苦しいね。世界の不幸を知ったならば、そのために行動する人間のほうを尊敬するし、倣いたいと思う。
いくら偉い先生でも専門外のことを言ってたらマユツバで聴いたほうがいいのだろーな。生姜先生とか。