不幸論 (PHP新書)作者: 中島義道出版社/メーカー: PHP研究所発売日: 2002/10メディア: 新書購入: 3人 クリック: 20回この商品を含むブログ (73件) を見る

PHP研究所(繁栄を通じて平和と幸福を)の本なのねえ。


著者はまず「幸福」の条件として

1.自分の特定の欲望がかなえられていること。
2.その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
3.その欲望が世間から承認されていること。
4.その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。

を挙げ、古今東西の幸福論を斬って捨てるのだが、この条件は幸福を感じる人の主観とそれを見ているひとの客観(しかも客観についてはは100%を求める)が両方成立しなければならないため、絶対に幸福は成立しない。これでは議論の余地がないし、あとは中島氏の一方的な主張が延々と続く。*1
その一方で不幸については明確な定義は一切なされていなかったりする。(『不幸論』なのに!)


筆者の中島氏は自分がひたすら不幸であると言うが、別に自らの行動で不幸を指向しているのではなく、たんに幸福を感じてしまったあとにそのことを不幸ととらえ直しているだけなのだ。本人はイヤなことはやらない主義なのだそうだし。

「他人から見て幸福そうに見えても本人が不幸と感じているから幸福ではない」という前章で使われる幸福論への反証ロジックは、まるきり裏返して中島氏に当てはめることができる。
つまり「自分がいくら不幸に思っていても、大学教授で妻子がいて別荘を海外に持っている(この話は最終章になってやっと出てくる)中島氏は幸福」なのである。
そう考えると、なんともしらけた話になってきてしまう。

そもそも感情レベルでいえば幸福も不幸も一過性のものであって、それをあとから考え直してもなんの意味もないだろうに。(そこまでいくと立ち直りようがないが……)


次の幸福教批判についても、自分の気にいらないことに対してひたすらラベリングしているだけに過ぎない。メディアスクラム少年法の問題なんてまるきり幸福論とは別問題。
はっきり言えば筆者が心配するほど人は他人のことを気にしていないものだし、筆者が自分で書いているとおりに自意識過剰なのだろう。


さらには「自己中心主義」を貫けと他者に薦めつつ、自分は他者との対話は疲れるからしないという。それはダブルスタンダードなのではないか。「中島先生のは対話をしないから哲学ではない」、という氏の私塾の学生の不満はもっともだ。完全に自己の脳内で完結出来るなら、学問として他人にそれを発表する必要はないのだから。もちろん哲学が知を愛する学問であることは釈迦に説法のはず。
「イヤなことはやらない」という主張はまるで年寄りの養生訓である。


最終章にいくと、「高望みしないで自分のままで生きろ」、という趣旨の結論が書かれて終わる。それって「分相応に生きろ」って意味だろうか?ずいぶんとありふれた結論!


てな感じでひたすら中島氏の主張が書かれている本。書いてることはどうも詭弁にしか感じられなかった。中島教と言われてもしかたがないかもしれん。中島氏のキャラクターが強烈なのはよくわかったが、それに呑まれたりはしない。
http://www.bk1.co.jp/product/2230723
ある意味「電波男」よりも電波チックだなあと思うし、この主張を真に受けている人は実に素朴な人なのだろう。結局持てる人の主張であり、持たない人がこの主張に賛同し実践してもますますミジメになるだけのような気がする。


まあ哲学は奴隷の犠牲の上で始まったようなものだし、そう考えると中島氏の主張はプリミティブな意味で哲学的なのかもしれないなあ。

*1:生まれて生きているだけで、動物を含めた他人を不幸にしているというのは聖書の「原罪」であって、奥さんがカトリック教徒であるくせにそれを一言も言及しないのもどうかと思った