岡田斗司夫の遺言 番外編 補足 

ガンダムのシャアの行動についての分析。
「坊やだからさ」のシーン。
シャアは決して自分のやったことに満足していない。
その証拠に枚数をかけてウィスキーを揺らす動作をしている。
弟の死すら政治の道具として使うガルマの演説を聞き、ウィスキーをぐっと煽る。
そして自分の行動がまちがっていることを知りつつもキシリアの部下になる。
ガルマの演説のシーンは、ホワイトベースのクルーが自分たちがガルマを殺したというのを認識せずに見ている。これがガンダムの世界を広げている。

キシリア」と対談するシーン。
劇場番ではキシリアの前でマスクを外してカメラ目線で本音を語る。(演出の約束として、「仮面」を外し、「カメラ正面」でのセリフは、その人物の「本音」を語っている。
シャアはガルマを殺しても心は晴れなかったというその心情を吐露。
しかし、弟を殺されたという話を聞いたのにキシリアはスルー。
シャアのキシリアを討つ理由が固まる。


キシリアをバズーカで撃つ」シーン。
キシリアのもとに向かうシャアを見送るセイラ。劇場版ではアムロの名を聞いて視線をずらしたセイラの顔を見て安心するシャアの描写がある。
TV版では戦艦はキシリアの乗った戦艦は、そのあと連邦からの砲撃で落ちている。シャアの生死は不明。
帰る場所を得たアルテイシアアムロと、帰る場所を失って死ぬシャアとの対称があった。
そのほうが作品として美しいと岡田氏は考える。
TV版では戦場の一エピソードとして描かれていたのに、劇場版ではバズーカの砲撃で戦艦が落ちていて、さらにシャアは生き延びる。
キャラがウケたことを反映して富野監督が変えた?


我々がシャアを「3倍の速さの赤い彗星」とか「坊やだからさ」のキャラとして観ることでスポイルされてしまう視点。監督はちゃんと作っている。



On Your Marks の分析
ファーストカットの塗り固められた原発、鉄条網、教会。はチェルノブイリを想定。
車は装甲車で人間は外に出られず、人はドームの中で暮らしている。ここは現実の世界。


宗教施設で虐殺。
目の開いた死体は宮崎アニメ初。少女の死体の背中を掴み、落とすシーンがある。これが天使の少女の正体。
以降から妄想開始。
少女が保護されるカットで、人物がフレームインするときフレーム外から普通に入るのではなくオバケのようにスッと入ってくる。
これは妄想だから。


居酒屋のシーンは現実。妄想と交互に見せる。
現実のドームの世界では食べ物も合成(居酒屋)だが、妄想の世界(少女を救う作戦をたてる)は部屋に花が飾られている。妄想であることのサイン。


少女救出のシークエンスはコミカルな描写で、簡単に少女を救えている。妄想だから。
連れ去られるシーンでは少女は動いていない。死んでいる。
追手の飛行機にぶつかられて墜落。ここで妄想は失敗。


つぎのシーンから妄想やり直し。歌に合わせてリフレイン。
今度は救出に成功。装甲車は飛行描写に拘る宮崎駿ではありえない飛行能力で脱出。(そもそも少女が背中の羽根などで飛べること自体ありえない)
壁にぶつかるカットは前半の、現実の突入シーンとの対比。
ラストは妄想なのでオープンカーでドームの外(死の世界)へ。
少女は飛んでゆく。死の世界なので飛ぶときに黒い雲が遠景でチラリと見える。
ラストの鳥瞰で見おろしているカット。ハッピーエンドであれば車はどこまでも走ってゆくが、この作品では道路を外れて止まって終わっている。


この作品は押井守庵野秀明に対抗した宮崎駿の本気の実験劇場。
「童貞の妄想」をこれ以上なく表現している。
宮崎監督はアニメなんぞ観てないで外で遊べ!が主張だが、観ている人たちにはそうは受け取られない。その矛盾こそが作品を作る原動力となる。


今回繰り越しの「寝言」ネタ。
岡田斗司夫自伝を書く際のメモ書きいろいろ。