「仮面ライダー響鬼」の事情

「仮面ライダー響鬼」の事情―ドキュメント、ヒーローはどう“設定”されたのか

「仮面ライダー響鬼」の事情―ドキュメント、ヒーローはどう“設定”されたのか

すごい今更だけど読んだー。なんと残酷な本だろう。
片岡氏が企画で出したアイデアやプロットがたっぷり収録されているけど、そのキラ星のようなアイデアの数々が放映版では容赦なくドブに捨てられていることがわかってしまうのだから。


そもそも企画にあたって文芸部を立ち上げたのはいいけど、プロの脚本家(ライターではない)がちゃんと参加していない(きだ氏は毎回参加できていなかった、とある)あたりに悲劇が始まってるというか。この本に書いてある内容を読むと、とにかく企画の辻褄合わせ、設定のための設定に時間を取られて肝心の番組の中身を決めてる時間がなくなってく様子ばかりが目に浮かぶ。
その状況を打開する者もいないし(片岡氏も設定合わせのほうに拘るタイプに読めた。だからこそ高寺Pが呼んだのだろうか)、そのうえ途中参加の大石氏の「我々ライターは時間や予算の制約を考えないほうがいいアイデアが出るのではないか」という意見に賛同してしまう高寺Pは、果たしてプロなのかどうか。
設定はドラマの面白さの骨子ではないのだから、ドラマのための設定のはずが、設定のせいでドラマができなくなっては本末転倒。妥協しないことがプロの証であっても、完成させられなければプロ以前の問題だ。


もちろんバンダイやプレックス、石森プロ、東映テレビ朝日旭通信社とのかねあいの話も出てくるけど、そちらの干渉はあまりなかったようだし、その分企画の穴も見過ごされてしまったところも多かったように読めた。
『新生』も、対象年齢を上げるのも良いけど、企画の段階でもうすでに子供は置き去りにされている感があるし、そこでの齟齬をあえて子供番組のプロとして流すのではなく、無理にでも辻褄合わせをしようとすることでさらに企画が遅れる悪循環。


放映後にしても、だいたい企画の骨子が師匠と弟子のバディものだったのに、弟子入り却下にしてしまった時点でもう企画自体が変わってしまうことになぜ高寺Pは気づかないのか。ジュヴナイルの解釈が違う以前の問題ではないか。
そのへんの路線変更の話は別に本には書いてないのだけど、企画会議でせっかく苦労して作った資料が一瞥されただけで流されたり(それでモチベーションが下がったことも正直に書いてある)、イエスマンじゃないからという理由で放映の二ヶ月前になっていきなり片岡氏がクビにされたりというのを読んでも、噂になっている悪評ももっともだなあと思ってしまう。


優秀な人材を集めることがプロデューサーの資質だから、という理由で高寺Pを擁護しようとしても、自らそれを潰していくさまを見せられてはもう何も言えない。PDは人を集めたら後はマネージメントだけしてればいいんじゃない?と思う。結局更迭の理由も(これも書いてないけど)予算と時間のマネージメントの拙さだったんじゃないか。
高寺Pはもう映像作品に戻って来なくていいなあ。ずっと井上伸一郎の下で働いててください。

なんか本の感想じゃなくなってるけど、片岡氏は別に恨みつらみを書いてるわけじゃないのに、フツーに読んでくとどうしても高寺批判になってしまうというのは……。
もちろんこの本を出版するためのエネルギーとして、その恨みつらみがまったくないわけじゃないんじゃないか、という気はするが。(東映の仕事がなくなったとしてもこの本を出版したことでライターとしての能力もアピールできそうだし)


ところで2ちゃんねるまことしやかに言われていたウワサで、
響鬼は555の後番組として高寺Pが企画していたが、それが遅れたせいで剣もグダグダになった
・「仮面ライダー」の名前を使わないと以後は「仮面ライダー」の版権を下ろさないよ、石森プロがゴネたせいで仮面ライダーの名前が付いた
というのがあるけど、この本を読む限りだと信憑性は薄い感じ。でもなくはないよなあ。


2ちゃんねるといえば、一昨年紹介した響鬼反省会のスレで「明日夢魔化魍の音を感じる超能力があって、それを理由に弟子入りしておけば……」というのがあったけど、片岡氏の書いたプロットにそのままの内容があってウケた。放映してるのを観れば同じことを考えた人がいてもおかしくないけど、片岡氏がカキコミしてたとしたらちょっと面白いな。ていうかシロウトが考えても放映版のプロットは異常だったんだよなあ……。


ということでちと高いけど響鬼ファンには間違いなく楽しめて悔しめる内容。旧儲ファンにはどうなんだろう……。