女性はみんな女神サマ

女性はみんな女神サマ (双葉文庫)

女性はみんな女神サマ (双葉文庫)

全ての女性を愛する睦月先生のほのぼのエッセイ。女性を女神と崇めつつも考え方はかなりマッチョで、そのへんのギャップが面白い。夢想する女性と現実の女性のギャップについてもちゃんと分かってて、その上で笑いのネタにしているのが男らしいなあ。


女性を「母」と「娼婦」に分けて考えてたのは三島由紀夫だったか。睦月先生は家族として近くなると性欲を持てなくなる、と書いててそれはそれで正しい。言い方はアレだけど愛の形が変わってくるっていうやつですな。
睦月先生は母親としての女性を求めているのではないのがカッコイイ。男性に関する考え方は基本的に頑固オヤジ的なんだけど、不倫は全然オッケーなのが素敵。旦那さんより愛しますよーみたいな感じか。


睦月影朗先生の論は電波男本田透とは正反対で、これはこれで痛快。ちょっと対談させてみたい。

「35だろうと40だろうと、彼女ひとり作れねえ奴はみんなガキなんだよおおおおっ!」
私の考えは、こうである。青春とは、年齢に即した時期を言うのではない。必ず通らねばならぬ義務なのである。
(略)
「とにかく、女性の良さも分からん奴が、女性を悪く言うものではない!」


ただ本田氏の求める女性は「女」じゃなくて「母(家族)」だと思うんだよね。*1
オタクの女性の好みが「母」型だというのは、それこそ本田氏の先輩が指摘してて、この論には自分も大変納得してたりする。

「純愛系」のヒロインは結局のところ、最後に結ばれる主人公と本質的に同一のものであり、たとえ申し訳程度に絡みが描かれようと、それは「男女のまぐわい」ではない。強いていうなら、男性キャラクターによる、女性キャラクターへの胎内回帰を、ごくありふれた形に表現しなおしたものに過ぎないのではないか、と思う。

結局、違うのだ。

その手の人が求めているのは、完璧な姿になって性さえ超越した「あるべき自分」の再生であり、異性や他人との出会いではない。「女房」と呼ばれる、墓穴の中まで付き合うことになる、自分とは別の存在、というものとは限りなく遠いものでしかない。

http://masa-1.air-nifty.com/mono/2005/week20/index.html


自分でエロゲー書いてみてほんとにそうだなーと思った次第。
以前からここのブログの『オタクの好む女性』論には膝をポンポン叩きまくりだったりして。『萌え』って昔から父性愛だと思っていたんだよ!
本と全然関係ない話になったな。

*1:本田氏を持ち上げて非モテで結託している人々はその点で内部でズレがあるんじゃないかと思う。本田氏はまだ「芸」として非モテが成立してるけど、そうじゃない人はやっぱ単にアレ