戦中派不戦日記 山田風太郎

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

ハンドルが果心堂のクセにいまさらである。

戦時中の非戦闘員の認識といえばこういうものだったのではないか。

さも山田先生が特別のように認識しているが、日記をつけていないもののこういう考え方の日本人は多かったのではないかと想像する。
それが終戦と共に転向するかしないかの問題。

これを読むと日本というより先頃のアメリカの大統領選挙を連想する。

天皇信仰の鉄壁はげに農村にあり。されど、ああ、これら農民の信仰は盲信との区別なし。それゆえに強く、それゆえに弱し。それゆえに恐るべく、それゆえに恐るるに足らざるなり。


唐沢俊一氏の日記や対談にあるとおり、ムーアがいかにロジカルにインテリに訴えようと、農村の受け手には腹の立つだけの話に過ぎなかったということか。

以前「新現実」の大筭英志・宮台真司対談を読んだときにも思ったことだが、天皇制を否定するのに、それを信じる人間を田吾作呼ばわりでは誰もついて来ない。
ある意味間が抜けているといえば言えるのだが、実はそれがわかっていてあえて自己満足的にそういう言い方をしているとすれば罪が深い。
これが戦後言を翻し山田に呆れられているタイプの人間なのではないか。


ゲッペルスではないが相手に伝える方法それ自体をちゃんと考えなければどんなに有用な主張でも全く意味を成さない。
アルカーイダとアメリカ政府が思想戦をしている通り、日本の文化人もそれを真剣に考えなければ、やはり絶対に勝つことはできないのではないか。
それを真剣に考えて発言している人間がいるのかどうか?